吹く風

笑根能彩、よもぎ色の風に染まって

未来のこと

1,
 人間の好奇心というのは、自分の未来に対して最も旺盛なのではないだろうか。


「将来どういう自分になっているのか知りたい」
 という人がいるかもしれない。
「あと何年生きられるか知りたい」
 と思っている人もいるかもしれない。
「あの人と将来結ばれるかどうかを知りたい」
 という若い人もいるだろう。


 そんなに遠くのことを考えないという人でも、例えば明日明後日のことだとか、一年後のことは、垣間見てみたいと思っているのではないだろうか。


2,
 2003年のことだったが、ぼくはダイエーホークスの優勝が近づいた時に、ほとんどの試合を録画していた。優勝の決定試合を収めておきたかったからだ。


 面白いもので、野球の試合を録画すると、中継やスポーツニュースを一切見たくなくなるものだ。その録画を見るまでは、絶対に結果を知りたくないからである。


 だけど、知ってしまうと、もう見たくなくなくなってしまう。結果を知ってしまうと、途中経過は無意味になるわけだ。


3,
 もしかしたら、人が未来のことを知ってしまうと、野球録画を見る前に結果を知るのと同じようなことになるのではないだろうか。


 未来を知ってしまったから、もう何も努力したくないなどという人も出てくるだろう。


 中には未来の自分の姿を知ってしまったがために、悲観して自殺するという人が出てくるかもしれない。
 しかしその人は、自分が見た未来がくるまで死なないはずだ。なぜなら、その人はそこまで生きる運を背負っているからだ。


 きっと、その後その人はその時、未来を見たことを後悔するに違いない。


4,
 今ぼくは、10年後の生活を知りたいと切に思っている。


 10年後、ぼくは80歳の手前まで来ているわけだが、その時まだ立ち仕事をやっているのだろうか。詩やエッセイを書き続けている自分でいるのだろうか。
 そういうことが、今一番の関心事であるからだ。


 今日、ふと「そういうことを考える歳になったんだなあ」などと感慨に耽っていた。


 ところが、古い書き残しなどを見てみると、いつの時代もそういうことを書いてある。


 例えば76年のノートには
「10年後、ぼくはいったいどういうなっているのだろう」などと書いている。
 そういえば、その頃から急に占いに興味を示しだしたのだった。


5,
 しかし、もしその時に未来のことがわかってしまっていたら、いったいぼくはどうなっていただろうか。


 そう考えるのは、86年の自分が76年当時に期待していた自分になってなかったからだ。仕事にしても然り、恋愛にしても然りである。


 もし、その当時未来を知ってしまっていたら、おそらく悲観して何の望みも持てなかっただろう。


 やはり、未来を知りたいという好奇心よりも、未来はこうなっていようという想像力のほうが、大切なのだと思う。


(2003年10月10日 記)